長年、世界を舞台に活躍するパラスイマーの鈴木孝幸。2024年4月からはサステナビリティ推進室に籍を置き、競技のかたわら共生社会を推進する役割も担う。37歳にして世界に挑み続ける鈴木の次なる目標と、パラスポーツ普及への思いについて、2回にわたり紹介する。
世界で戦うとき、ベテラン選手の役割とは
6歳で水泳を始め、15歳で本格的に競泳をスタート。17歳で日本代表としてアテネ2004パラリンピックに出場し100m自由形、150m個人メドレー、団体の4×50mメドレーリレーを泳ぐ。以来、5大会連続でパラリンピックに出場し、10個にものぼるメダルを獲得。
20年もの間、第一線のアスリートとして世界を舞台に戦っている鈴木のモチベーションはどこにあるのか。次に控える大きな挑戦に向けて、その意気込みを聞いた。
「 競技を長らく続けるなかで、ベテランと呼ばれる立場になってきました。若手選手のなかには『有観客の世界規模の大舞台は初めて』という選手もいます。僕のようなベテランができることは、そういう選手の緊張をほぐしてあげられるような声がけやムードづくりだと考えています。見たことのないような大観衆、そして大歓声……その場にのまれてしまう選手は少なくありません。
初めてアテネで泳いだとき、僕も飛び込む瞬間までブルブルと震えていました。そんな時に手を差し伸べてくれたのが、団体のメドレーリレーに一緒に出場した花田裕治選手。10代の選手に“アニキ”と呼ばれ、慕われていた選手ですが、僕が緊張でガチガチになっているときに『一緒にがんばるぞ』って声をかけてくれたのを覚えています。実は、メドレーリレーで僕が平泳ぎを担当することは、前日の夜に決まったんですね。予選を通過してそのまま決勝も泳ぐことになったのですが、個人種目では自由形で出場していましたから、メドレーリレーでも間違えて自由形を泳いでしまうんじゃないかって、気が気でなかった。平泳ぎのところを自由形で泳いでしまったら一発アウトですから。飛び込むとき、花田選手が『鈴木、平泳ぎだぞ!』って声をかけてくれ(笑)、無事に務めを果たすことができ、結果的に銀メダルを獲得できました」
個人として最高のパフォーマンスを披露することはもちろん、ベテランの選手としてはチーム作りにおいてもさまざまな役割を期待される。間近に迫った世界的な試合に向けては、20代を中心としたチーム作りを行っている。そこで期待される役割は、長いキャリアで培った経験を次世代に伝えることだという。
「20代の選手が中心を担い、そこに10代の選手がついていって、上を見たらなんとなく30代の選手が混じっている……というチーム編成において、『世界の舞台でメダルを目指すとはどういうことなのか』『大観衆の雰囲気にのまれないためにはどうするのか?』といったことを、押し付けがましくなく伝えられればと思っています。具体的には、普段通りの練習を淡々と行い、試合に臨む姿を若手の選手に見せたい。もちろん、必要に応じて声がけやアドバイスは行いますが、チームを引っ張るのは20代の役目。重要な役割はどんどん彼らに任せ、次の世代が育っていくさまを見守っていきたい。
若手選手に対しては、世界のトップアスリートを相手に戦えるチャンスを生かしてほしいと思っています。僕自身の競技生活における最高の瞬間は、2008年、北京の50m平泳ぎ決勝でした。競技が早い時間に行われたこともあって観客の数がすさまじく、日本から家族や友人が応援にかけつけてくれるなかで金メダルの泳ぎを披露できた。試合後のセレモニーも大歓声に包まれ、鮮烈な記憶となって残っています。1人でも多くの選手に、記憶に残るような瞬間を経験してほしい」
年齢を重ねるなかで、進化し続ける
一方、自身のパフォーマンスに関してもさらなる進化を遂げている。昨年までは肩の調子が思わしくなく、ストローク(腕で水をかく一連の動作)の回数制限を設けたトレーニングを行っていたが、復調した今年は充分に泳ぎ込めるようになった。
「トレーニング内容も進化していますし、ウエイトトレーニングの回数も増えた分、手応えを感じています。スイムについても、距離は20代の頃に比べたら落ちていますが、その分、質が高くなっていて、この年齢にしてはよく泳げていると自負しています。すでに2021年の記録はクリアできていますし、次のステージに向けて順調に調整を進めています。
反面、疲労の蓄積は感じるようになったので、回復に意識と時間を割くようになりました。トレーニングの合間にこまめにマッサージを行ったり、睡眠時間を多くとったり。オフの日もなるべく自宅でゆっくり過ごし、疲労回復に努めています。オフのルーティンといえば、コーヒーを飲んで猫を撫でて、ぼーっとするくらい(笑)」
20年続けてきたから伝えられること
20年間、アスリートとしてハードなトレーニングを続けてきたからこそ、後進に伝えられることもある。
「20年選手を続けてきたといっても、自分が突出したプレイヤーであるとはまったく考えていません。ただ、長く続けてきたからわかることもあります。後進に伝えたいのは、『自分の身体に詳しくなろう』ということです。若い頃は、自分のパフォーマンスが下がるとしたら心肺機能や身体機能の衰えだろうと思っていましたが、実は故障が先でした。心肺機能のリミットは年齢とともに下がってきますが、リミット内でも高強度のトレーニングを続けることで、高いパフォーマンスを維持することは可能です。けれども、高強度のトレーニングは身体に負担がかかり、故障につながりかねません。
故障による痛みを感じるようになって初めて、ケアやコンディショニングの対策を行う選手は少なくないと思いますが、若いときから自分の身体にしっかり向き合いながらトレーニングを行うことで、故障のリスクを減らして長く競技を続けることができると考えています。とりわけパラスポーツの選手は左右差がある場合もあり、そのアンバランスが故障を引き起こすこともあります。若いときはトレーニング前の準備運動やトレーニング後のケアを真剣に行わずとも練習をこなせてしまいますが、将来のためにも早い時期からケアやコンディショニングに目を向けてほしいと思います」
ベテランといえども若手と同様に貪欲に、さらなる高みを目指して挑戦し続ける鈴木。一方、社業においてはサステナビリティ推進室に所属し、パラスポーツや共生社会の実現を推し進めていることもあり、世界各地のアスリートが一堂に会すパラスポーツの祭典には特別な意義を感じている。
「競技者として特別なものを感じるのはもちろん、社会的にパラスポーツへの関心が高まることもこの大会の恩恵だと思っています。とはいえ、こうした盛り上がりは一過性のものになりがち。パラスポーツを社会に浸透させるためには、これをより身近なものに捉えてもらう仕掛けや啓発が必要だと感じています」
後編では、発刊したばかりの絵本や、味の素株式会社とのパートナーシップ契約など、最近の活動を通じて伝えたいこと、これからの共生社会についての思いをお伝えする。
パラアスリート鈴木孝幸の世界への挑戦と、パラスポーツへの思い(後編)へ
(プロフィール)
鈴木孝幸
すずき・たかゆき
株式会社ゴールドウイン サステナビリティ推進室サステナビリティ推進グループ所属
1987年、静岡県浜松市出身。
6歳で水泳を習い始め、高校入学後、本格的に競泳に取り組む。高校3年生の時に日本代表としてアテネ2004パラリンピックに出場。団体で出場した200mメドレーリレーでは銀メダルを獲得。200mフリーリレーでも4位入賞を果たす。早稲田大学教育学部在籍時に出場した北京パラリンピックでは日本の競泳チームの主将を務め、150m個人メドレー、50m平泳ぎ、50m自由形、100m自由形、200m自由形に出場し、50m平泳ぎで金メダル、150m個人メドレーで銅メダルを獲得。平泳ぎの予選では48秒49の世界記録を打ち立てた。大学卒業後、株式会社ゴールドウイン入社。スピード事業部、コーポレートコミュニケーション室、CSR推進室を経て、2024年4月から、サステナビリティ推進室に所属し、共生社会推進の役割を担う。ゴールドウイン所属後もロンドン、リオ、東京と連続してパラリンピックに出場し、東京では金メダル1個、銀 メダル1個、銅メダル3個を獲得、出場した全種目でのメダル獲得を果たした。その功績を認められ令和3年度紫綬褒章を受章。また、現在、IPCアスリート評議委員としても活動中。
(写真 田辺信彦/文 倉石綾子)